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シュタイナー人智学概要

体・生命・心・魂

 

人間について考えてみよう。まず知覚できるのは体だ。けれど、体は人間の本質の一部にすぎない。目で見ることができ、手で触れることのできるものが体だと思うなら、誤っている。人間の体には、高次の部分が混ざっている。人間の体は、たしかに鉱物と同じ素材からできている。でも、そのように見えるのは、体に他の部分が混ざっているからだ。目が見ているものは、本当は体ではない。体というのは、人間が死の扉を通過したあとに残るものだ。

 

高次の部分から切り離された体は、それまでとは別の法則に従う。それまで体は、物理的・化学的な法則に対抗してきた。人間の体は、崩壊に対して戦う生命に浸透されていないと、死体になる。生命が人間の第二の部分だ。生命オーラの頭・胴・肩は、体とほぼ同じ姿をしている。下に行くにしたがって、生命は体と似たところがなくなっていく。体と生命では、左右が逆になっている。体の心臓は、やや左側に位置している。生命の心臓は右側にある。男の生命は女性的であり、女の生命は男性的だ。生命の動きの柔軟さは、体の動きとは比べものにならない。健康な人の場合、生命は若い桃の花の色をしている。薔薇のような濃い赤から、明るい白までの独特の色合いで輝き、光っている。

 

心が人間の第三の部分だ。人間の楽しみ・苦しみ・喜びなど、思いのオーラは輝く雲のように見える。それが心だ。心は、じつに様々な色と形を示す。たえず形を変えながら漂う雲のようだ。その雲のなかに作られるものは、人間が他人に対して持つ感情を表わしている。人間の思いが絶えず変わるように、心の色と形も絶えず変わる。

 

人間の第四の部分は魂。楕円形をしており、その中心は前脳にある。そこに、青く輝く球が見える。そこから卵のような楕円形で青色が流れ出ている。

 

 

魂による心・生命・体の変容

 

魂が心・生命・体に働きかけることによって、人間の仕事が始まる。魂はまず心への働きかけを始める。この自分への働きかけは「清め」と呼ばれる。心は二つに分けられる。働きかけられて浄化されたところと、そうでないところだ。魂が不屈に心に働きかけると、しだいに人間はよいことをするように自分に命じる必要がなくなり、よいことをするのが習慣になる。自分の命令に従うだけなら、魂は心に働きかけている。よいことを行なうのが習慣になると、魂は生命にも働きかけている。なにかが説明され、それを理解したとすると、魂が心に働きかけたのだ。心が繰り返し同じ活動をすると、生命に働きかけることになる。一度かぎりの理解は魂から心への働きかけであり、繰り返しは魂から生命への働きかけだ。生命の原則は繰り返しである。繰り返しがあるところには、生命が活動している。完結するのが心の原則だ。人間は魂から体に働きかけることもできる。それは最も困難な仕事だ。

 

体・生命・心への働きかけには、意識的な働きかけと無意識的な働きかけの二つがある。無意識的な働きかけは、自分ではそれと知らずに、芸術作品の鑑賞や、敬虔な思い・祈りによって働きかけていることだ。人間の心は、無意識的な部分と意識的な部分の二つからなっている。魂が無意識的な方法で働きかけた心の部分は「感じる心」と呼ばれる。魂が無意識的に生命に働きかけたものが「知的な心」だ。長期にわたって無意識的に体のなかで改造されたものが「意識的な心」。ついで、意識的な働きかけが始まる。人間が意識的に心に働きかけてできたものが「精神的な自己」。人間が意識的に生命に働きかけたものが「霊化された生命」だ。意識的な呼吸によって、体は魂によって「霊体」へと改造される。

 

 

眠りと目覚め

 

目覚めているときの人間と、眠っているときの人間を考察してみよう。意識が眠りに落ち、喜びと苦痛が沈黙するとき、何が生じているのだろうか。そのとき、心と魂は、体と生命の外にある。眠っているときの人間は、体と生命が寝床にあり、心と魂は外に出ている。

 

人間の心が夜、体と生命から出ていくのと同じ分だけ、神々の心が寝床に横たわる体のなかに入ってくる。神々の魂が入ってきて、血液の面倒を見る。そして朝、人間の心と魂が生命と体に帰ってくると、人間の心が神々の心を追い出す。夜のあいだ血液の面倒を見ていた神々の魂を、人間の魂が追い出す。人間の魂と心は夜、体と生命から去り、朝になると戻ってくる。

 

 

死の直後

 

生きているあいだ、生命は体と結び付いている。死ぬと、生命は体から離れる。

 

死の瞬間、過ぎ去った人生全体が一つの画像のように、死者のまえを通り過ぎる。生命は記憶の担い手であり、その記憶が解き放たれるからだ。生命は体のなかにあるかぎり、みずからの力すべてを展開することはできない。人が死ぬと、生命は自由になり、人生をとおして自分のなかに書き込まれたことを、体の束縛なしに展開できる。死の瞬間、生命と心と魂が体から抜け出し、記憶映像が心のまえに現われる。さまざまな出来事が同時に心のまえに現われ、一種の画像のように概観を示す。この記憶映像は客観的なものだ。

 

人間が生きているときに、眠りに陥ることなく起きつづけていられる時間の長さだけ、死後の映像は続く。回想の映像はそれくらいの長さ続き、そして、消えていく。

 

生命のすべてが解消するのではない。生命の精髄を、死者はたずさえていく。生命の精髄とともに、人生の果実もたずさえていく。

いまや人間は、生命の精髄と心と魂を有している。

 

 

心霊の世界

 

心にとって根本的に新たな時期が始まる。地上への愛着から離れる時期が始まるのだ。心のなかに存在しているものは、死後、体を捨てるとともになくなるのではない。衝動・願望は、すべて存在しつづける。

 

体の喜びは心に付着しており、欲望を満たすための道具=体がないだけなのだ。その状態は、おそろしく喉が乾いているのに、乾きを癒す可能性がまったくないのに似ている。欲望を満たすために必要なものがないので、その欲望ゆえに苦しむのだ。

 

これが心霊の世界の状態である。欲望を捨てていくところだ。ここで過ごす期間は、生まれてから死ぬまでの年月の三分の一の長さ。地上に結び付いている欲望がすべてなくなるまで、心霊の世界の期間は続く。

 

人間にとって、体のなかで体験することは意味のあるものだ。経験を積み、地上での行為をとおして、高みへと発展するからだ。

 

別の面では、生まれてから死ぬまで、発展の妨げとなるものを作る、おびただしい機会がある。人に負担をかけて自分本位の満足を手に入れたり、利己的なことを企てたりしたとき、私たちは自分の発展を妨げている。だれかに物質的な苦痛を与えても、心理的な苦痛を与えても、私たちの進歩の妨げになる。

 

心霊の世界を通過していくとき、人間は進歩の妨げを取り除く刺激を受ける。心霊の世界で、人間は自分の生涯を三倍の速さで、逆向きに体験していく。事物がすべて逆の姿で現われるのが、心霊の世界の特徴だ。心霊の世界を見るときには、すべてを逆にしなくてはいけない。

 

心眼が開けたとしてみよう。そのとき、まず自分が発している衝動や情熱が目に入るのだけれども、それらが様々な姿で、あらゆる方角から自分のほうに向かってくるように見える。すべてが逆に体験されるのだ。

 

ある人が60歳で亡くなり、心霊の世界で、40歳のときに人を殴った時点に到ったとしてみよう。そこで、相手が体験したことをすべて、自分が体験する。自分が相手のなかに入って、そのような体験をするのだ。そのように、自分の人生を誕生の時点へと遡っていく。

 

一つずつ、心の発展の妨げとなるものを、心は捨てていく。心の発展の妨げとなったものを埋め合わせる意志衝動を、心は受け取る。そして、心は来世で、その意志を実現する。

 

私たちは、自分の行為によって他人が感じたものを、心霊の世界で体験する。地上で苦痛として体験したものは、心霊の世界では喜びだ。記憶画像が与えることのできない、苦しみと喜びの遡行的な体験を心に与えるために、心霊の世界は存在する。

 

心霊の世界を生き抜くと、心の死骸が捨てられる。この死骸は、人間が魂によって清めず、秩序を与えなかった心の部分だ。衝動と情熱の担い手として人間が受け取り、魂によって手を加えず、精神化しなかったものは、心霊の世界を通過したのち解消される。

 

さらなる歩みにおいて、人間は心の精髄をたずさえていく。自分の力によって高貴にしたもの、美・善・道徳が心の精髄を形成する。心霊の世界の終わりに人間は魂であり、魂のまわりに心の精髄と生命の精髄、よい意志衝動がある。

 

 

 

精神の国

 

新しい状態が始まる。苦悩から解放された、精神の国での魂の生活だ。

 

地上には私たちが歩む陸地があり、水があり、空気があり、すべてに熱が浸透している。精神の国の陸地には、鉱物すべての形態が含まれている。地上の鉱物があるところは何も見えず、空になっている。そのまわりに霊的な力が、生命的な光のように存在している。

 

精神の国へと上昇する意識にとって、物質は本質的なものではなく、そのまわりに見える力が本質的なものだ。鉱物の結晶は陰画のように見える。地上の物質形態のなかに存在するものが、精神の国の大陸を作っている。

 

地上の植物・動物・人間の生命すべてが様々な存在に分配されているのが、精神の国の海・川のように見える。

 

人間と動物の感じるものから、精神の国に大気圏が形成されている。心のなかに生きるもの、苦痛・喜びが、精神の国の空気を作る。すばらしく好ましい音が、精神の国の大気を貫いている。

 

地上の陸地・海・空気に熱が浸透しているように、精神の国の三つの領域に思考が浸透している。思考は精神の国で、形態・本質として生きている。精神の国で人間が交流できる存在たちが、熱のごとく、精神の国全体に満ちている。

 

人間が心霊の世界で物へのつながりを捨てた分だけ、意識が明るくなる。物への願望が強ければ、死後の生活において意識が曇る。物への執着をなくしていくにつれて、曇っていた意識が明るくなっていく。そして、精神の国を人間は意識的に体験する。

 

精神の国における最初の印象は、過ぎ去った人生における自分の体を、自分の外に見ることだ。この体は、精神の国の陸地に属する。

 

死後、人間は体の外にいる。精神の国に入るとき、体の形態を人間は意識する。こうして、「私はもはや地上にはいない。私は精神の国にいる」ということが明らかになる。

 

地上では、生命は数多くの存在に分配されている。精神の国における生命は、一個の全体として現われる。すべてを包括する一個の生命が、精神の国に現われている。人々を結び付けるもの、調和するものを、人間は精神の国で体験する。

 

人間が地上で抱く喜びと苦しみは、精神の国では風・気候のように現われる。かつて体験したことが、いまや大気圏として人間のまわりに存在する。

 

 

輪廻

 

地上で知覚器官は、外的な素材によって作られる。私たちの体は、周囲から作られたものだ。

 

精神の国では、周囲から霊的な器官が人間に形成される。精神の国で、人間は絶えず何かを周囲の生命から受け取り、周囲の要素から霊

 

体を作る。人間は自分を絶えず生成するものと感じ、自分の霊体の様々な部分が次々と発生していくのを感じる。この生成を、人間は精神の国を遍歴する際に至福と感じる。

 

人間は精神の国で、自分の元像を作る。死後、精神の国に滞在するたびに、人間はそのような元像を作ってきた。地上の人生の果実として、精神の国にもたらす生命の精髄が、そのなかに取り込まれていく。

 

この元像が凝縮して、物質的な人間になる。人間は過ぎ去った人生の精髄を精神の国にたずさえていき、それに従って新しい自分を作る。

 

人間が地上に生まれるたびに、地表は変化している。地球は新たな文化と状態を人間に提供する。心は、新しいものが学べるまでは、地上に下らない。自分の新しい元像を構築するために、人間は生まれ変わるまでの時間を必要とする。この元像は構築されると、地上にふたたび現われようとする。

 

生まれ変わるべき時期が来ると、人間は精神の国で作った元像に従って心をまとう。そして人間は、神々によって両親へと導かれる。その元像に適した体を与える両親のところへ導いていく神々を、人間は必要とする。それらの神々は、その元像に最も適した民族・人種に人間を導いていく。両親が与える体は、生まれようとする心と魂におおよそしか適さないので、体と心のあいだに、神々によって生命が入れられる。生命をとおして、地上的なものと天から与えられたものとが適合する。

 

ふたたび地上に生まれるとき、人間は死後とは逆の道をたどる。まず心をまとう。ついで生命、最後に体をまとう。

 

人間が生命を得るとき、これから入っていく人生を予告する画像を見る。その予告の画像は、生命が組み込まれるときに現われる。

 

※西川隆範・シュタイナー人智学概要より